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【概要】
大店(おおだな=大商店)の若旦那である徳さん。吉原の廓遊びに夢中になって家を勘当されてしまう。
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『お天道様と米の飯は付いて回ります』ってな事を云って威勢良く家を飛び出したのはいいけれど、お天道様は付いて回るんだが米の飯は付いて回りゃしないので、腹が減ってもうふらふら。当てにしていた花魁のところは体(てい)よく追い払われ、親類を頼ろうとしても相手にしてくれない。
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絶望した徳さんは本所吾妻橋(ほんじょあづまばし)から身を投げようとするが、偶然通りかかった叔父さんに止められる。馬鹿な甥に小言を云いながらも、天秤に唐茄子(かぼちゃ)を担がせ商いに出す。
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働いた事など無い徳は、強い日差しと重い荷に倒れてしまう。通り掛った親切な男の助けで唐茄子をあらかた売る事が出来た。残りの荷は自分でなんとかしようと、売声の稽古をしながら稲荷町から吉原田圃へとさしかかる。(ここまでが「序」)
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元気の出た徳は、売れ残った二個の唐茄子を担いで再び歩き出す。貧乏な浪人の女房に唐茄子を求められる。おまけをした代りに弁当を使わして貰おうとすると、浪人の子供が現れる。『もう二日も食べてない』と聞いた徳は、売上げと弁当を貧乏な母子に恵み、逃げるように立ち去る。が、せっかく恵んでやった金は、因業大家に取られて女房は首をくくって大騒ぎ。徳の話を信用しない叔父さんと長屋に駆けつけて、何とか一命を取りとめる。(以上。志ん生版の聴き取り)
。映像データ・・・昭和47(1979)年7月25日 第135回落語研究会 国立小劇場 圓生78歳時 9月3日に亡くなる40日ほど前
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データ・・・六代目 三遊亭圓生(1941年襲名) 明治33(1900)年9月3日~昭和54(1979)年9月3日 享年79 前名=六代目 橘家圓蔵(1925年襲名) 出囃子=正札附 本名=山崎松尾 通称=柏木の師匠(1957~1971まで新宿区柏木に居住した事による) 落語協会会長(1965~1972) 勲四等瑞宝章(1973)
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【雑感】
『三方一両損』や『鹿政談』などと同様に、講釈の『大岡政談』から取って落語にしたもの。このあとの展開は・・・貧乏な母子から家賃を巻き上げた、ふてぇ~因業大家(家賃を徴収するのは大家の仕事?)を南町奉行へ訴え出て、若旦那の徳も信用を回復し勘当が解ける・・・と云う事になりますが、長くなるので普通は奉行所へ訴える部分以降はダイジェストで語るだけ。
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この映像で圓生は、普通は後半部分をカットするところを、出だしの身投げ部分をカットして最後までやってます。と云ってもお白洲の場面まで出て来る訳ではない。つまりお白洲部分は初めっからこの演目にはないので政談は付けないのが本当なんです。
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落語で「政談」と云った場合は、お奉行が出て来る演目となっているのですが、この演目ではお白洲の場面を語りません。ですから、四代目 柳家小さん以前は「唐茄子屋」と云う演題でした。しかし、戦前の第二次落語研究会で小さんがこの演目を掛けた時に、久々に小さんが大根多をやるのかと期待されたのですが、実際にやったのは、上方の「みかん売り」をカボチャに改作した「かぼちゃ屋」だったので、紛らわしいからそれ以降は、本来の「唐茄子屋」は「政談」を付けて演ずるようになりました。
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さすがに圓生さんは最後に「これは唐茄子屋でございます」と一本釘を刺してます。誠に落語教育委員会の教育長とか高等落語専門学校の校長先生でしたな。考えてみると圓生亡き後の落語界には、天狗連紛いの半築な不良セミプロが増えてしまって落語の伝統がどんどん失われてしまいました。
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そう云う連中のやってるモノってのは伝統的な落語じゃないんだから、着物を着て座布団の上に座ってやる必要はないんだけれども、新しいスタイルを作り出す自信が無いからか、いつまでも落語の様式に寄り掛かっていて落語でないものをやってるってのは非常に見苦しいでげす。
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このクリップの、2:40のところで「無いと思うな○○○天罰」の「○○○」の部分でTBSがカットした用語って何でしたっけ? (^ω^)
このクリップの、2:40のところで「無いと思うな○○○天罰」の「○○○」の部分でTBSがカットした用語って何でしたっけ? (^ω^)