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静御前(しずかごぜん)ってのは義経の妾で義経の男子を産んだが頼朝によって由比ヶ浜に沈められました。そんな詳しい事は知らないが、静御前と云う名前くらいは藪さん世代の人なら知っているはずです。
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ところが袈裟御前(けさごぜん)ってのは、「源平盛衰記」に関係しているらしいのだが、今朝のご膳をまだ食べてないので調べる気力がない(^ω^)
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「袈裟御前」と云う演目は、現代では鶴光さんが持ち根多にしているようなのだが、東京では先代の七代目 圓蔵さんがやっていた。まあ漫談みたいな根多なので、どうこう云う事もないだろう。
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それよりも先代の圓蔵と云う、古い時代の頑固な口の悪い噺家を地で行ったような人の事を書く方が面白いだろう。七代目 圓蔵は明治35(1902)年の生まれだから圓生よりも二つ年下で、四代目 圓遊や三代目 三木助と同い歳です。
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横浜で生まれて子供の頃から様々な丁稚奉公をした末に21歳の時の大正12(1923)年7月に八代目 桂文楽に入門したが、師匠をしくじって一年もしないうちに破門。鬼の馬風の紹介で七代目 小三治時代の七代目 正蔵門に移ったりしたが、またもや破門。
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大正末から昭和に掛けての不況下では噺家では飯が食えないので、圓遊と同様に幇間に転向。昭和5年頃に文楽一門に復帰するも噺家では飯が食えないので名古屋で幇間。戦時下の昭和16年には幇間などの歌舞音曲業が禁止になってしまったので、39歳の時に再度、二ツ目で文楽一門に復帰。
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昭和20年5月に圓生が志ん生と共に大陸の大連へ慰問興行に出かけたので、圓生が昭和22年4月に帰国するまで圓生の留守宅の面倒をみる。戦後の昭和21(1946)年4月に四代目 月の家圓鏡を襲名して、44歳で真打ち。
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圓生が上方から連れて来た桂梅團治に東京で桂小南の二代目を名乗らせたかったので、圓生を襲名するステップ名跡である、三遊にとって重要な名跡の圓蔵を、一代限りの約束で文楽と交換した。しかし当時圓鏡を名乗っていた後の圓蔵は、小南を襲名する事に固執したので三遊に小南名跡が渡らないまま、昭和28(1953)年3月に圓鏡が七代目 橘家圓蔵を襲名した。
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小南名跡を渡してくれないので困った圓生は、一年後の昭和29(1954)年3月に梅團治に三遊の名跡の百生の二代目を襲名させた。文楽も圓生も七代目 圓蔵も亡くなってしまった現代に於いては、圓蔵名跡のボタンの掛け違いが今だに続いているのだけれども、それをブログで何度も指摘しているのは、落語史研究家の藪さんくらいしかいない。
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ちなみに、先代 三平の実父であり師匠の七代目 正蔵は昭和24(1949)年に亡くなりましたが、圓蔵は自分がかつては七代目 正蔵一門だった事もあるので、三平を預かり弟子にしました。圓蔵の筆頭弟子が三平なので三平が真打ちになった昭和33(1958)年には、三平に自分の前名の圓鏡名跡の五代目を襲名させようともしました。
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まあ、先代 圓蔵のように落語界で立ち回った人は嫌いだと云う人もいるだろうけれども、こんな嫌なヤツはいなかったと云う事では、逆の意味で藪さんなんかは面白さを感じています。現代の落語界なんて、圓蔵のような策士もいないし名人もいない。まったく魅力のない落語界だとは思いませんか?
14:23 袈裟御前 /橘家圓蔵
データ・・・七代目 橘家圓蔵(1953年3月襲名) 明治35(1902)年3月23日~昭和55(1980)5月11日 享年78 前名=四代目 月の家圓鏡(1946年4月襲名) 出囃子=お江戸日本橋 本名=市川虎之助
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音源データ・・・昭和50(1975)年2月19日 鈴本演芸場 圓蔵72歳時