。でも正月の初席ってのは落語家の稼ぎ時ですがら、幾つもの寄席を掛け持ちする訳で、長い人情噺なんかをやる人はいません。
。持ち時間に合わせて適当にカットできる浮世床のような演目が重宝される訳で、正月に寄席に行くような人は碌な落語をやってないのでご通家とは云えないんです(^ω^)
。しかしながら、先代の四代目 圓遊さんの映像で唯一残っている浮世床は、素晴らしいの一言です。指の動作になんとも色気があります。
。こんな凄い噺家の後継者が、残念ながら今だにひとりも出てきていません。
https://www.youtube.com/watch?v=u057CBP8yEA
データ・・・四代目 三遊亭圓遊 明治35(1902)年2月12日~昭和59(1984)年1月9日 享年82 前名=初代 桂伸治 出囃子=さつま 本名=加藤勇
、当代の五代目(本名=名取光三 1943~)は、昭和60(1985)年4月に圓遊名跡を襲名しましたが、それ以前は若圓遊、その前は笑遊を名乗り、よくテレビに出ていた度の強い丸メガネの噺家さんですが、先代の四代目は、実に「はんなり(=上品で、明るく華やかな)」した色気のある噺家さんでした。
。四代目 圓遊は六代目 雷門助六に入門した後、大正末には六代目 都家歌六を名乗りましたが、昭和初期の不況時には多数の噺家が廃業や転業を強いられ、志ん生も一年間講談に転業しましたが、圓遊さんは28歳の時の昭和5(1930)年頃に柳家三太郎の名前で品川の幇間に転業しました。
。41歳までの13年間、幇間をやっていたのですが、戦時下の昭和18(1943)年に花柳界が禁止になったため、二代目(初代とも)桂小文治(本名=稲田裕次郎 1893~1967)門下で初代 桂伸治を名乗り、噺家に復帰しました。戦後の昭和21(1946)年、44歳の時に四代目 圓遊を襲名し芸協の大看板として活躍しました。昭和20年代後半にラジオ局が次々に開局すると、文楽と共にラジオ東京(現TBS)の専属になりました。
。幇間をやっていた経験があるからか、芸風は実に粋で色気がありました。この動画の手や指先の動きをご覧になって下さい。このような表現は、並大抵の苦労でできるもんじゃありません。さりとて、圓菊のようにやったら、単なるオカマになっちゃいますが・・・(^ω^) また楽屋の大真打ちであり、その気さくな性格から、誰彼と無く話し掛けては笑わせて、あまりにも笑い過ぎて高座に上がれなくなる噺家もいたとか・・・(^ω^)
、弟子の小圓遊(本名=関根尚雄 1937~1980 死因=食道静脈瘤破裂)に早世された後は気落ちしてしまい、ほとんど引退状態のまま失意の内に没しました。