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Channel: 藪井竹庵
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いい男

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イメージ 1 三代目 林家三平さん(1925~1980)が、テレビタレントのご子息の乗りでマスコミに持て囃されて、落語ブームだなどと云ったりするのは、もはや何の取り得も無くなってしまったと思われる東京落語の復興には、結構な事ではあるんですが・・・

志ん生が三平さんを評して、「おまいさんの芸は、むく犬のケツにノミが入ったようだ。何がなんだか、訳が判らないのがいい」と云ったように・・・まあ、そのようなお笑い芸でしかないんです。私だって、三平さんの生前は・・・「あんな三平なんて・・・」と思っていましたが・・・三平さんの死後に彼の偉大さを思い知らされた。何故なら、今の噺家のほとんどは三平の真似でしかないから・・・

で、痴楽さん。爆笑王として、大いに笑わせていただきました。三平さんより、四歳年上の爆笑王。はるかに三平さんより凄かったと思います。「痴楽綴り方狂室」を三遊亭歌笑(1917~1950)の「歌笑純情詩集」の真似だと云うお年寄りもいらっしゃいますが・・・残っている歌笑の音源を聴く限り・・・痴楽の方がはるかに面白いと思います。

歌笑は、詩集と云う事で詩のスタイルを真似てナンセンスな事を七五調で語りました。痴楽が何故、歌笑と同じような七五調のラップをやったのかと云うと・・・それには訳があるんです。

戦後になって歌笑が注目されたは、いち早く復活したNHKラジオで、敗戦で何も無くなって打ちひしがれていた日本人がすぐに飛びつけるようなお手軽な笑いを提供したからです。ゆっくりと人情噺を聴く余裕などない時代に、すぐに爆笑できる語りを提供したからです。それは「歌笑現象」とも云われました。

その現象に付いて、ジャーナリストの大宅壮一(1900~1970)さんと対談するほどでした。歌笑が亡くなったのは、大宅壮一との対談を銀座で終えた後、銀座七丁目の中央通りを横断する時に進駐軍のジープに轢かれたからです。事故原因は、歌笑は極端な斜視だったために、ジープが良く見えなかったためだろうと云われています。

昭和25(1950)年当時、人気絶頂だった歌笑はたくさんのスケジュールを抱えていました。興行主としては穴を空ける訳には行かないので、昭和20(1945)年9月に戦後初の真打ちとなった29歳の痴楽が歌笑の代役に抜擢されました。当時の痴楽は、五代目 柳家小さん(1915~2002 当時は九代目 小三治)、歌笑と共に戦後の若手三羽烏と云われてました。

痴楽は睦会の七代目 柳枝(1893~1941)に入門しましたが、師匠の死後はその大師匠で睦会の会長だった五代目 左楽(1972~1953)門となります。痴楽は新作もやった両刀使いでしたが、歌笑の代演の高座では、歌笑を聴きに来た客の為に七五調の語りをやってみせました。それが後に痴楽を代表する「綴り方狂室」のマクラになりました。だから痴楽は歌笑のスタイルをパクった訳ではなくて、歌笑を聴きに来た客へのサービスとして七五調の語りを聴かせたんです。

https://www.youtube.com/watch?v=BeWXn6_I0aI
 データ・・・四代目 柳亭痴楽 大正10(1921)年5月30日~平成5(1993)年12月1日 享年72 前名=春風亭笑枝 本名=藤田重雄 富山市出身 戦前の落語睦会~落語芸術協会所属

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