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Channel: 藪井竹庵
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切通し

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イメージ 1 「切通し(きりどおし)」と云われている場所は、いろんなところにあるんだと思いますが、東京で切通しと云った場合は春日通りの湯島にある坂の事です。

切通しと云うのは、文字通り切って通す事を云うので、地名ではなく現地の人だけが知っている通称名ですね。切通しの説明板が確か春日通りにはあったと思いますので、今度行った時に忘れなければ撮影しようと思います。

藪さんの認識としては・・・徳川家康が江戸に来て、その百年前に太田道灌が作った千代田城に入城し・・・じゃなかった。家康は秀吉に、草深い武蔵野の地の開発を命じられたんだったと思います。太田道灌が去ったあと荒れ果てていた千代田城を修復し、大規模な土木工事をやりました。

今で云う国土交通大臣に相当する普請奉行と云うのを作って、代々の徳川幕府の将軍様が江戸を大阪に負けない商業都市にすべく大規模な工事をやりました。

有名なのは、度々洪水を起こし暴れ川と云われた神田川の流れを変えた工事です。お茶の水の聖橋から下の神田川を見ると、40メートル近い標高差があります。つまりそれは、神田川を隅田川に流すべく本郷台地を削ったんですね。

湯島天神の男坂と云ってる34段の急階段をご覧になればお判りのように、本郷台地から東側の天神下へ至るには、かなりの標高差があります。東京を東西に走る春日通りは江戸時代には通行の要衝でした。

つまり、春日通りをなだらかな坂にする為に、本郷台地を削ったんです。だから、湯島天神の北側の春日通りの部分を切通しと云ってるんです。多分そのような事が切通しの説明板には書いてあるはずです。違ってたらご免なさい(^ω^)

志ん生はよく昔の東京は暗かったとマクラで語ってました。湯島の切通しなんか真っ暗で、その暗い中を平気で歩いていたと云ってました。志ん生は明治23(1890)年の神田生まれですから、志ん生の子ども時代と云うのは圓生が生まれた明治33(1900)年前後と云う事になり、神田から上野の不忍池は近いので、藪さんの子供時代の遊び場が小石川植物園だったのと同じように、志ん生の子供時代の遊び場は不忍池だったと晩年の志ん生も語ってます。

https://www.youtube.com/watch?v=KPhq2q8vUdc
 撮影データ・・・平成26(2014)年2月21日(金) 正午前後

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