現在の寄席等で使われている寄席関係の文字はすべて橘流です。東京の場合、台東区の下谷神社に「寄席発祥之地」の碑がありますが、それは江戸の最初のプロの噺家と云われる初代 三笑亭可楽らが、下谷神社の境内で木戸銭を取って寄席興行を行った寛永年間の1798年から数えて二百年を記念して、建立されたものです。
また、その碑の隣には「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉」と云う、落語好きだった正岡子規の句碑があります。子規はおそらく、同じく落語好きだった盟友の夏目漱石と連れ立って、上野鈴本で三代目 小さんを聴いたに違いないと藪さんは推測します(^∇^)
参考までに下谷神社の取材記事・・・http://blogs.yahoo.co.jp/yacup/64293729.html
で、寛永年間に始まった寄席興行と云うのは、それまではその手のお笑いは見世物小屋で行われる事が多かったので、江戸庶民に落語と云うスタイルを知ってもらうために、宣伝ビラと云うポスターをあちこちに貼りました。
当初は普通の書体で文字が書かれていましたが、30年ほど経過した天保年間になると、提灯や半纏に書かれた字体と歌舞伎の勘亭流の字体を折衷して作り出した独特な書体がビラ字と云われました。
それらのビラ字は、震災や戦災によって姿を消してしまいました。戦後落語の天皇と云われた上野黒門町に居住する黒門町の師匠(八代目 桂文楽)は、噺家を廃業して神田立花亭の楽屋主任をやっていた橘右近(1903~1995)に、ビラ字を集大成し寄せ文字を復活するように命じました。
右近は江戸時代からのビラ字の膨大な資料を収集し、独特の書体を確立しました。昭和40(1965)年には文楽の勧めで「橘流」寄席文字を創始し、その書体が現代に至っています。
って事で、文京シビックセンターで行われていた文京博覧界の伝統工芸の部屋で藪さんが、橘右之吉さんのブースを撮影しながら例によって橘流寄席文字に付いて呟いてますと・・・右近さんの筆頭弟子の左近さんの話になった時に、左近は私の兄弟子ですと話し掛けて来た人がいました。
藪さんは、その展示場の係の人かと思って最初は無視して撮影していたのですが、なんとその人が橘右之吉さんでした。右之吉さん、あの時はたいへん失礼いたしました(^ω^)
鷲神社の二の酉の取材に行こうと焦ってましたので、余裕のある取材が出来なかったのですが、右之吉さんに「藪井竹庵」と書いてもらえばよかったなと後で悔やみました(^ω^)
データ・・・橘右之吉 昭和25(1950)年1月23日~ 本名=吉田秀男 右之吉さんの詳細に付いてはウィキで・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%8F%B3%E4%B9%8B%E5%90%89
https://www.youtube.com/watch?v=KXjEJmg9vDM
撮影データ・・・平成26(2014)年11月22日(土)午後 文京シビックセンター