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志ん生が亡くなったのは昭和48(1973)年9月21日ですから、今年は志ん生没後40年と云う事になるんですね。今の噺家さんで、亡くなってから40年経過してブログのような媒体で取り上げられる人っていますかねぇ? つまり志ん生はそれほど偉大な噺家だったと云う事で、今後、百年経とうが二百年経とうが語り継がれる噺家だと思います。
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藪さんは何で毎度毎度志ん生の記事ばっかり書くのかと云うと、以前の記事には書いてなかった事が次々に判ってくるからです。本を読むとすぐに眠くなる藪さんなのですが、何とか頑張って半ページくらいずつ志ん生関連の本を図書館で借りて読んで行くと、以前には判らなかった事が次第に判ってきます。
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志ん生の美濃部家の墓が何で文京区小日向(こびなた)の還国寺(げんこくじ)にあるのかと云うと・・・明治23(1890)年生まれの志ん生のお爺さんかなんかが、三千石くらいの石高を取った旧幕臣で、水道橋近辺にその屋敷があったらしい。その関係で屋敷から近い小日向の還国寺に墓があるものと思われます。
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旧幕臣は明治維新で職を失いましたから、志ん生のお父さんと云う人は神田に住んで巡査になったらしい。だから志ん生は子供の頃の思い出として、上野界隈や不忍池が遊び場だったと良く語っていたのです。
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私が去年の夏前だったと思いますが、還国寺へ行った時には以下の記事のように墓石の左手前にある墓誌には、美濃部家の先祖と志ん生一家(おりんさん、馬生、志ん朝)が篆刻されていたのですが、snob先生情報によると、馬生の娘の池波志乃さんと中尾彬の夫婦が、馬生の墓を谷中の寺に作ったと云う事で、右上の写真のように現在の墓誌は新しくなっていて、馬生は抜いてありました。snob先生のブログでその記事を探したのですが、見付からなかったので詳細は不明です(^ω^)
http://blogs.yahoo.co.jp/yacup/63586477.html
。データ・・・五代目 古今亭志ん生(1939年襲名) 明治23(1890)年6月28日~昭和48(1973)年9月21日 享年83 前名=七代目 金原亭馬生(1934年襲名) 本名=美濃部孝蔵 出囃子=一丁入り 落語協会第四代会長(1957~1963) 紫綬褒章(1964) 勳四等瑞宝章(1967)