新宿の歌舞伎町で火事があったと云うニュースが続いてます。火事は怖いですね。くれぐれも火には用心してください。
。と云う事で、火事の息子と云えば?
・・・坊や・・・小火(ぼや)。
。これは、歌笑純情詩集で有名だった三代目 三遊亭歌笑(1917~1950 本名=高水治男)が戦後間もなくの頃にやっていたギャグですが、戦前の音源では使われているのを聴いた事がないので、もしかしたら歌笑のオリジナルかも知れません。
。小火も大きくなると火事になりますので、気を付けて下さい。マッチ一本火事の元です。と云っても、最近、マッチって見ないなぁ。そのうちに、マッチってどうやって使うのか判らない子供も出てくるかも知れません。ほとんどの日本人が、火打石の使い方を知らないように・・・
。落語に関連して江戸時代の風俗を調べているにも拘らず、江戸時代の旅人がどうやって煙草に火を点けていたのかが、今だによく判らない。「芝浜」で三木助は魚河岸で煙草を吸いますが、どうやって火を点けたのか・・・火打石を持ち歩いていたのだろうか・・・「悋気の火の玉」の旦那は「火の道具」を忘れて来たと云って、火の玉に煙草の火をもらうので便利ですが・・・
。その件に付いて更に調べてみると・・・江戸時代にも旅人が持ち歩けるライターのようなものがありました。火打石に火打ち金をぶつけて火花を出し、炭の粉をまぶした綿に火を点けたんです。
。「火事と喧嘩は江戸の華」と申しますが・・・遠くの火事を見に行くってのは、消火の邪魔になるので行かない方が宜しいが、消防車のサイレンが近所で止まった場合は消防の邪魔にならない範囲で、一応は外へ見に出た方がいいでしょう。風向きによっては火の粉が降ってくるかも知れませんし、蔵のある家は鼠穴に目塗りをしなくてはなりません。低いところならいいけれど、高いところの目塗りは梯子を掛けて、下から投げてもらった用心土の団子を受け取って・・・
。まあ、最近は蔵のある家がほとんどないので、そんな事はしないでしょうが・・・江戸時代には消防ポンプも無いし防火用水のバケツリレーではなかなか火が消えないので、商店では蔵に火が入らないようにするために、蔵の目塗りは絶対に必要な作業でした。
。子供の頃から火事が好きで、火事があると血が騒ぎ火消しの仲間入りをして身体には彫り物を入れるは、火事があると仕事も放り出して火消しの手伝い。とうとう、商店の息子さんは勘当になってしまいます。
。近所で火事だってんで番頭さんは梯子に登り、蔵の目塗りをしようとしますが・・・帳場に座って算盤をはじいていればいっぱしの仕事は出来ますが、梯子の上で下から投げられた土を受け取るなんて事はできる訳が無い。片方の手は怖いから梯子を握っている。片手で土は掴めないでいると、屋根伝いに走ってきた火消しが、番頭の帯を折れ釘に引っ掛けてくれる。両手が使えるようになった番頭はかっぽれを踊り・・・
。火が収まってやれやれ。あの、旦那さん。さっき助けてくれた火消しが来ております。おおそうか。礼を云わなくてはな。こっちへ呼んでおいで。それが・・・ご勘当になった息子さんで・・・
。なぬ~! 追い返せ。・・・と仰いましても、助けてくれたんですからお礼くらいはしませんと・・・そうか。じゃあ、呼んでおいで。身体中彫り物がしてあるので、隠そうとして身を小さくしている。たいそうキレイに絵が描けましたね。私ゃそんな風にお前を育てた覚えは無いよ。でもまあ、礼は礼だ。ありがとうよ。
。旦那さん。そんな礼は無いでしょう・・・と番頭。他人様なら、助けてくれたんですから何か差し上げませんと。婆さんや。勘当した息子が来たよ。何かやっとくれ。あらそうですかお爺さん。まあ、綺麗な彫物だこと。音羽屋~! バカ婆ぁ。何を馬鹿な事を云ってるんだ。お礼にあげるものは少しでいいよ。でもねぇ。この子はいろんな着物が似合うんですよ。
。だったら旦那さん。上げるのが駄目なら、捨てたらいいでしょう。捨てれば勝手に拾っていきます。そうか番頭。いいところに気が付いた。箪笥を三つくらい捨てとくれ。それから千両箱も捨てとくれ。この子に立派な「なり」をさせたいねぇ。立派な「なり」をさせてどうするんだ? 火元へ礼に行かせます。
https://www.youtube.com/watch?v=eYipP9B4X0Q
動画データ・・・昭和53(1978)年1月2日 テレビで全国放送された鈴本の初席
。データ・・・六代目 三遊亭圓生 明治33(1900)年9月3日~昭和54(1979)年9月3日 享年79 前名=六代目 橘家圓蔵 出囃子=正札附 本名=山崎松尾
。この演目は、二代目 三遊亭圓朝を襲名する事が決まっていながら病に倒れ、ついに圓朝名跡を襲名せずに没した初代 三遊亭圓右(1860~1924)の持ち根多として、若き日の志ん生や正蔵や圓生のような三遊一門の若手をして、その高座を楽屋で満喫した事でしょう。
。圓生が亡くなる一年前の正月の高座。圓生が78歳になる年で、落語協会を脱退する波乱の年の正月でした。圓生の凄さってのは、高齢になっても最晩年までぜんぜんブレなかった事です。
。これが圓生の落語であり、藪さんが圓生は東京落語の第一人者だったと云う理由がお判りでしょ? でも落語がまったく判ってないバカが世の中にはいる。藪さんがこの動画をチューブに上げたのは四年前だ。さっき見たら、高評価が45で、低評価が4だった。おい! 四人のバカ。何故ダメなのかの理由を云え。ばか者。
。噺家は客が育てるんだよ。バカな客ばかりだからロクでもない噺家ばかりになっちゃうんだよ。