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Channel: 藪井竹庵
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浮世床

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イメージ 1 浮世床と云う落語演目は、もちろん暮れの演目とは断定できません。

でも正月の初席ってのは落語家の稼ぎ時ですがら、幾つもの寄席を掛け持ちする訳で、長い人情噺なんかをやる人は
いません。

持ち時間に合わせて適当にカットできる浮世床のような演目が重宝される訳で、正月に寄席に行くような人は碌な落
語をやってないのでご通家とは云えないんです(^ω^)

しかしながら、先代の四代目 圓遊さんの映像で唯一残っている浮世床は、素晴らしいの一言です。指の動作になんと
も色気があります。

こんな凄い噺家の後継者が、残念ながら今だにひとりも出てきていません。

https://www.youtube.com/watch?v=u057CBP8yEA
 データ・・・四代目 三遊亭圓遊 明治35(1902)年2月12日~昭和59(1984)年1月9日 享年82 前名=初代 桂伸治 出囃子=さつま 本名=加藤勇

当代の五代目(本名=名取光三 1943~)は、昭和60(1985)年4月に圓遊名跡を襲名しましたが、それ以前は若圓遊、
その前は笑遊を名乗り、よくテレビに出ていた度の強い丸メガネの噺家さんですが、先代の四代目は、実に「はんなり(=上品で、明るく華やかな)」した色気のある噺家さんでした。

四代目 圓遊は六代目 雷門助六に入門した後、大正末には六代目 都家歌六を名乗りましたが、昭和初期の不況時には
多数の噺家が廃業や転業を強いられ、志ん生も一年間講談に転業しましたが、圓遊さんは28歳の時の昭和5(1930)年頃に柳家三太郎の名前で品川の幇間に転業しました。

41歳までの13年間、幇間をやっていたのですが、戦時下の昭和18(1943)年に花柳界が禁止になったため、二代目(初
代とも)桂小文治(本名=稲田裕次郎 1893~1967)門下で初代 桂伸治を名乗り、噺家に復帰しました。戦後の昭和21(1946)年、44歳の時に四代目 圓遊を襲名し芸協の大看板として活躍しました。昭和20年代後半にラジオ局が次々に開局すると、文楽と共にラジオ東京(現TBS)の専属になりました。

幇間をやっていた経験があるからか、芸風は実に粋で色気がありました。この動画の手や指先の動きをご覧になって
下さい。このような表現は、並大抵の苦労でできるもんじゃありません。さりとて、圓菊のようにやったら、単なるオカマになっちゃいますが・・・(^ω^) また楽屋の大真打ちであり、その気さくな性格から、誰彼と無く話し掛けては笑わせて、あまりにも笑い過ぎて高座に上がれなくなる噺家もいたとか・・・(^ω^)

弟子の小圓遊(本名=関根尚雄 1937~1980 死因=食道静脈瘤破裂)に早世された後は気落ちしてしまい、ほとんど
引退状態のまま失意の内に没しました。

年の始め

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イメージ 1 年の始めの例(ためし)とて
 終(おわり)なき世のめでたさを
 松竹(まつたけ)たてて門(かど)ごとに
 祝(いお)う今日こそ楽しけれ

ご存知「一月一日」と云う唱歌の歌詞です。

お正月は何でめでたいかと云うと、天皇の御代が終わりなく続くからめでたいんですね。いずれにしましても、めでたい事はめでたくない事よりも良い事である。今年も馬鹿者達が盛り場でバカな騒ぎをしたようであるが、お正月ってのは各家庭の歳神様を静かに迎えるものなのである。

だから藪さんはどこへも出かけずに、チューハイ飲みながら両親の事を思いだして涙していました(^ω^)

まあそれはともかく、皆様、あけましておめでとうございます。今年も楽しく過ごしましょう(^∇^)

って事でね。ラジオ体操の取材に行こうと思ったのですが、初天神の取材までは自重しようと思います。

どう云う記事を書きましょう。やっぱりおめでたい落語がいいですよね。73歳時の圓生が鈴本の初席で演じた「八五郎出世(妾馬)」がいいでしょう。八五郎が出世をすると云う、おめでたいお話ですと締めくくってます(^∇^)

https://www.youtube.com/watch?v=yIX0uuSkS-8
 データ・・・六代目 三遊亭圓生 明治33(1900)年9月3日~昭和54(1979)年9月3日 享年79 前名=六代目 橘家圓蔵 出囃子=正札附 本名=山崎松尾 勲四等瑞宝章(1973年9月)

映像データ・・・昭和49(1974)年1月5日にNHKで放送された映像・・・藪の解説を加えるならば、この映像は昭和49年の上野鈴本の初席の映像をNHKが収録し1月5日に放送したものと思われます。だからこの時の圓生は73歳ですね。ちなみに、鈴本の初席のトリを取る人が東京落語の第一人者となったのはいつの時代からだったか・・・?

しかしながら現代の鈴本の初席(1日~10日)は三部制になっており、一部のトリが柳亭市馬。二部のトリが古今亭菊之丞。三部のトリが柳家三三となっております。

 
 ちなみにこの演目は、圓生がまだ小僧の頃に師匠の四代目 圓蔵から教わったモノで、義父の五代目 圓生が亡くなった後に六代目を襲名した圓生は後ろ盾を失いましたが、この演目が出世作となりました。

切り火

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イメージ 1 時代劇の一幕で火打ち石を打つのをよく見掛けますが、これは鳶職や左官など屋外で危険な職業に就く者の災難厄除けのために行ったものであると云われています。すなわち、古来から、火が清浄なものとする考え方から、火打石で火花を起こす事を切り火(きりび)を切るとも云い、身を清めるまじないや、火が魔除けになると云う信仰的なお祓(はら)いとしての意味がありました。

ただし、樋口清之(國學院大學名誉教授)は、切り火の習慣が定着したのは明治時代に入りマッチの普及で需要が落ち始めた火打石業者が宣伝用に外出時の切り火を考え出したもので、時代考証上から見て岡っ引きの切り火は不自然だとしています。一方、全国各地の鳶職や花柳界では、切り火が頻繁に行われていた事もあり江戸期まで遡れるとする説もあります。(出典=ウィキペディア)

時代劇で主人が出かける時、女房が肩越しに石で「チャッチャッ」と火花を飛ばす場面を見た事がありませんか?

出掛ける人に「浄火」を打ち掛けて災厄や邪気を祓う事を「切り火(きりび)」と云います。信仰と云うよりは一種の「おまじない」として用いられ、伝統を重んじる職人や、落語家・とび職・大工など「怪我の無いよう」、「仕事がうまくいくよう」にと縁起を担ぐため現在でも愛用されています。

使い方
利き手に火打石を、もう片方の手に火打金を持ち、火打石の角に火打金を打ち付けて相手の肩あたりの所へ火花を散らします。石から火花が散っているように見えますが、実際には火打金の金属面が削れ、摩擦熱で燃えて火花となります。また、使い込むうちに火打ち石が丸く削られ、火花が出にくくなって来ますので、そうした場合は火打石を交換して下さい。(以上、楽天市場の説明。画像の上が現代の火打金で、下が火打石)

・・・って事で、志ん生は、昭和36(1961)年12月15日、71歳の時に、巨人軍の優勝祝賀パーティーに呼ばれ、ホテルの高座で喋っている時に脳出血をおこして倒れちゃいました。三ヶ月の入院後、高座に復帰したい一心でリハビリを重ね、倒れてから11ヵ月後の昭和37(1962)年11月11日の新宿末広亭の高座に復帰して、志ん生十八番の「替わり目」を演じました。

当時はビデオが無い時代ですから、ニュース映像はフィルムで撮影されていたので、テレビよりもむしろ映画館で、映画を上映する前にニュース映画として上映していました。このフィルム映像は、昭和37(1962)年11月21日に封切られた映画館ニュースの映像です。

https://www.youtube.com/watch?v=I1FFHEMmBQQ

一般の家庭では切り火をやる事はないと思いますが、縁起物なのでやってみるのもいいかも知れませんね。アマゾンや楽天で切り火セットを通販で売ってます。銭形平次親分ゆかりの神田明神の入口にあるのが、甘味処と土産物屋の天野屋さん。その天野屋さんでも平次親分ゆかりの切り火セットを売ってます。ただし小さいミニチュアなので、実用品にはならないと思います。

客商売の噺家の志ん生のような家庭では、当たり前のように落語の富久で語られている大神宮様(神棚)があり、志ん生は神棚を拝んでから出掛けていた事が判る音源が残ってます。それにしても志ん生女房のおりんさんは、凄まじい勢いで切り火を切ってますね。

長男の十代目 金原亭馬生も二男の三代目 古今亭志ん朝も、母親のおりんさんに良く似ていました。

手締め

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イメージ 1 手締め(てじめ)とは日本の風習の一つで、物事が無事に終わった事を祝って、その関係者が掛け声と共にリズムを合わせて打つ手拍子。手打ちとも云う。祭りや冠婚葬祭などの式典、商談や株主総会などの終わりに行われる。

手締めの音は「シャンシャン」と表現される。特に質疑応答もなく短時間で終了する株主総会は、参加者は手締めしかしないと云う事で「シャンシャン総会」と揶揄される。

手締めは地方により、そのリズムや回数、掛け声が異なる。大きく分けて江戸締めと大阪締めに分けられる。中でも、江戸締めは全国的に広く行われ、最も基本的な手締めの形態。

江戸締め
江戸締めには一本締めと三本締めがある。拍数の「3回・3回・3回・1回」は3回の拍が3回で九になり、もう1回手を打つと九に点が打たれて「丸」になり、「丸く納まる」の意味になるからとも云われている。

始めと間に「イヨー」「ヨッ」「もう一丁」などと掛け声をかけ、最後に拍手する。「イヨー」は「祝おう」が転じたものとされる。

大阪締め
西日本では大阪締めが広く行われるほか、各地に独自の手締めが行われている。大阪締めは大阪を中心に行われている手締めで、「手打ち」と云う。

「打~ちましょ」 パンパン
「もひとつせ」 パンパン
「祝うて三度」 パパ~ンパン  (出典=ウィキペディア)

良く知りませんが、この、一定の手拍子をみんなが揃って打つってのは、日本独自の風習のように思われます。どこぞの国の将軍様が手拍子をしている動画は、日本のテレビでは何度も見受けますが・・・あれは単に手拍子をしているだけで、将軍様以外は、独裁者に目を付けられたくないから、おべっか手拍子をしているだけですね(^ω^)

でも、日本で行われている手締めの手拍子ってのはそうじゃなくて、意思統一の意味がありますね。それに様子もいい(江戸弁)し、気分がウキウキしますね。東日本の人には、大阪締めは馴染みがありませんが・・・カッコいい(大阪弁)手拍子ですねぇ(^ω^)

https://www.youtube.com/watch?v=ZsVnZNpsu_0
 

 
 繁昌亭口上・・・平成18(2006)年10月24日


一般的に年末年始の手締めと云うと、12月28日の仕事納めで手締めをやり、年初の仕事始めにも手締めをやります。藪さんのこれまでの経験では、仕事納めには良くやったと云う事で派手に三本締めをやり、仕事始めには気を引き締めて行こうと云う事で、あまり派手に手締めをせずに一本締めをする場合が多いようです。

黒門町の文七親分は、実際にはどうだったのかは判りませんが、テレビの時代劇ドラマでは一件落着すると、指のみで手締めをすると云う、非常に地味な事をやってましたが、藪さんは実社会ではそんな手締めを見た事がない(^ω^)

年始の落語

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イメージ 1 新しき年の、新しき月の、新しき日の初め・・・ってのは、新年に神社へ行くと神主さんが上げる祝詞の語り出しですが・・・森羅万象を語る落語にだって新年に相応しい演目があります。

まず第一に思い付くのが「御慶(ぎょけい)」です。現代では正月の挨拶に「御慶」なんて云う人はいませんが、落語の登場人物の長屋のスットコドッコイは、暮れに富くじが当って千両分限(せんりょうぶげん=大金持ち)になり、大家さんには滞納していた家賃を払い、正月の挨拶の「御慶」と云う言葉を教えてもらう。

正月の衣装を調えて、長屋の連中にバカの一つ覚えで「御慶、御慶」と連発する。当然ながら長屋の連中は御慶なんて言葉を知らないから・・・

おい、今なんて云ったんだ? 「御慶って云ったんだ(どこへ行ったんだ)」・・・「ああ、恵方参りの帰りだよ」と云うサゲ。

落語なんて芸術じゃないと半世紀前に志ん生は云ったが、現代の落語と比べると戦後昭和の大師匠たちがやっていた落語は・・・はるかにレベルが高くて芸術の領域にあるんじゃないかなと藪さんは思います。

もちろん、今の落語はかつての落語と比べたらはるかにレベルが低いので芸術ではありません。でも今の落語と比べたら半世紀前の落語は芸術だったと思います(^ω^)

https://www.youtube.com/watch?v=vl3I92ZhTK4
 映像データ・・・昭和52(1977)年 小さん62歳時

データ・・・五代目 柳家小さん 大正4(1915)年1月2日~平成14(2002)年5月16日 享年87 前名=九代目 小三治 出囃子=序の舞 本名=小林盛夫 北辰一刀流七段範士 生前は重要無形文化財(人間国宝)

いい男

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イメージ 1 三代目 林家三平さん(1925~1980)が、テレビタレントのご子息の乗りでマスコミに持て囃されて、落語ブームだなどと云ったりするのは、もはや何の取り得も無くなってしまったと思われる東京落語の復興には、結構な事ではあるんですが・・・

志ん生が三平さんを評して、「おまいさんの芸は、むく犬のケツにノミが入ったようだ。何がなんだか、訳が判らないのがいい」と云ったように・・・まあ、そのようなお笑い芸でしかないんです。私だって、三平さんの生前は・・・「あんな三平なんて・・・」と思っていましたが・・・三平さんの死後に彼の偉大さを思い知らされた。何故なら、今の噺家のほとんどは三平の真似でしかないから・・・

で、痴楽さん。爆笑王として、大いに笑わせていただきました。三平さんより、四歳年上の爆笑王。はるかに三平さんより凄かったと思います。「痴楽綴り方狂室」を三遊亭歌笑(1917~1950)の「歌笑純情詩集」の真似だと云うお年寄りもいらっしゃいますが・・・残っている歌笑の音源を聴く限り・・・痴楽の方がはるかに面白いと思います。

歌笑は、詩集と云う事で詩のスタイルを真似てナンセンスな事を七五調で語りました。痴楽が何故、歌笑と同じような七五調のラップをやったのかと云うと・・・それには訳があるんです。

戦後になって歌笑が注目されたは、いち早く復活したNHKラジオで、敗戦で何も無くなって打ちひしがれていた日本人がすぐに飛びつけるようなお手軽な笑いを提供したからです。ゆっくりと人情噺を聴く余裕などない時代に、すぐに爆笑できる語りを提供したからです。それは「歌笑現象」とも云われました。

その現象に付いて、ジャーナリストの大宅壮一(1900~1970)さんと対談するほどでした。歌笑が亡くなったのは、大宅壮一との対談を銀座で終えた後、銀座七丁目の中央通りを横断する時に進駐軍のジープに轢かれたからです。事故原因は、歌笑は極端な斜視だったために、ジープが良く見えなかったためだろうと云われています。

昭和25(1950)年当時、人気絶頂だった歌笑はたくさんのスケジュールを抱えていました。興行主としては穴を空ける訳には行かないので、昭和20(1945)年9月に戦後初の真打ちとなった29歳の痴楽が歌笑の代役に抜擢されました。当時の痴楽は、五代目 柳家小さん(1915~2002 当時は九代目 小三治)、歌笑と共に戦後の若手三羽烏と云われてました。

痴楽は睦会の七代目 柳枝(1893~1941)に入門しましたが、師匠の死後はその大師匠で睦会の会長だった五代目 左楽(1972~1953)門となります。痴楽は新作もやった両刀使いでしたが、歌笑の代演の高座では、歌笑を聴きに来た客の為に七五調の語りをやってみせました。それが後に痴楽を代表する「綴り方狂室」のマクラになりました。だから痴楽は歌笑のスタイルをパクった訳ではなくて、歌笑を聴きに来た客へのサービスとして七五調の語りを聴かせたんです。

https://www.youtube.com/watch?v=BeWXn6_I0aI
 データ・・・四代目 柳亭痴楽 大正10(1921)年5月30日~平成5(1993)年12月1日 享年72 前名=春風亭笑枝 本名=藤田重雄 富山市出身 戦前の落語睦会~落語芸術協会所属

藪入り

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イメージ 1 藪入り(やぶいり)と云うのは、江戸時代から戦前の昭和の初期頃まであった都会の商家の習慣で、1月15日の小正月から16日にかけてと、7月15日の盆から16日にかけての奉公人の休日の事を云います。

「藪入り」の語源には諸説あるらしいが、「藪深い田舎に帰る」と云う意味や、「実家へ宿入り」すると云うのが転訛したと云うのがあります。

住み込みの奉公人は年に二回の藪入りしか休日はなく、実家が遠くて実家に一泊して帰ってくるのが困難な者は帰省せずに、店の近所で芝居見物などをして休日を過ごしました。戦後は労働基準法などの影響で日曜日が奉公人の休日となったので、藪入りの習慣はなくなりました。

現代では、8月15日前後の旧盆に夏休みとして田舎の実家へ帰省する事が藪入りと同様の意味で残っています。

落語の「藪入り」と云えば、何と云っても「真田小僧」や「居酒屋」や「孝行糖」や「金明竹」等々、子供や与太郎が出て来る噺を得意にしていた、先代の三代目 金馬さんです。私は子供の頃に、テレビで金馬さんを拝見した記憶がございますが、当時はまだビデオ・テープが貴重品であり、何度も使い回しされていたのでフィルムで撮影した映像しか残っていません。

この「藪入り」と云う演目のルーツは、「お釜さま」と云うモーホーの艶笑落語らしく、それを初代 柳家小せん(1883~1919 通称=盲の小せん)がエッチい部分は取り除いて、「鼠の懸賞」と云う演目に作り直し、それを更に金馬さんが「藪入り」に作り替えたようです。

金馬さんがこのように、台を前にして語るのは、お好きだった釣りの帰りに、千葉の佐原で電車にぶつかってしまい足を悪くして、正座ができなくなってしまったからです。

もちろんこの映像は金馬さんが唯一、一席をやっている貴重なフィルム映像です。昭和20年代にNHKが記録した断片的な「居酒屋」の映像も残ってはいるのですが、ほんの十秒程度しか金馬さんは映ってません。

https://www.youtube.com/watch?v=av_cdvZrrU4
 映像データ・・・昭和36(1961)年1月13日 第19回東京落語会 ヤマハホール 金馬66歳時

データ・・・三代目 三遊亭金馬 明治27(1894)年10/25~昭和39(1964)年11/8 享年70 前名=圓洲 出囃子=本調子鞨鼓(かっこ) 本名=加藤専太郎

藪さんはもちろん、五代目 古今亭志ん生が古今東西、最高の噺家だったと思ってます。しかしながら志ん生に匹敵する噺家として、三代目 三遊亭金馬さんがいました。

活舌明瞭で、判りやすい語り口。老若男女、誰からも親しまれました。戦後のラジオの演芸番組では、六代目 春風亭柳橋と共にもっとも放送されたスーパースターでした。

金馬さんは初代 圓歌に入門したのですが、師匠との折り合いが悪く二代目 金馬門に移りました。朝寝坊むらく時代の後の三代目 圓馬の旅興行に随行して、戦前の朝鮮半島にも渡り東京へ帰って来たのは二年後でした。

東京宝塚劇場(東宝)が、有楽町の日本劇場(日劇)内に東宝演芸場を作ると共に東宝の専属になり、落語団体には所属しなかったので、ゲスト出演以外では、一般の落語定席には出演しませんでした。

右上の写真は弟子の三遊亭歌笑とのツーショットです。金馬さんは東宝専属の大看板だったので東宝以外の寄席には出ないから、他の寄席に出る事を希望した弟子の歌笑を、金馬さんの舎弟の二代目 円歌に託して、落語協会に所属させて一般の寄席に出演できるようにしました。

戦後笑いに飢えていた庶民は、歌笑のナンセンス落語に飛びついて、歌笑が出演する寄席にはいつも長蛇の列ができました。「笑いの水爆」と云われた歌笑も、絶頂期の昭和25年に進駐軍のジープに轢かれて亡くなりました。

七草

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イメージ 1 七草は「ななくさ」と読む。「しちぐさ」ではないので念のため・・・(^ω^)

1月7日は、七種類の野菜を入れた粥(かゆ)を食べる事が平安時代から始まり、江戸時代になると江戸幕府の公式行事となり、将軍以下すべての武士が七草粥を食べたと云う。

「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」。藪さんの時代の子供はみんなこれを知っていた。別に学校で教わった記憶はないので、大人から当たり前のように子供に伝わったんでしょうな。

七草粥ってのはご馳走なのかと云えば、そうじゃないよね。健康食だとは思いますが、病人でもなければこんなものは食わない(^ω^)

藪さんなら、そうだなぁ・・・七草をカレーに入れて食うか(^∇^)

火の用心

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イメージ 1 新宿の歌舞伎町で火事があったと云うニュースが続いてます。火事は怖いですね。くれぐれも火には用心してください。

と云う事で、火事の息子と云えば?
・・・坊や・・・小火(ぼや)。

これは、歌笑純情詩集で有名だった三代目 三遊亭歌笑(1917~1950 本名=高水治男)が戦後間もなくの頃にやっていたギャグですが、戦前の音源では使われているのを聴いた事がないので、もしかしたら歌笑のオリジナルかも知れません。

小火も大きくなると火事になりますので、気を付けて下さい。マッチ一本火事の元です。と云っても、最近、マッチって見ないなぁ。そのうちに、マッチってどうやって使うのか判らない子供も出てくるかも知れません。ほとんどの日本人が、火打石の使い方を知らないように・・・

落語に関連して江戸時代の風俗を調べているにも拘らず、江戸時代の旅人がどうやって煙草に火を点けていたのかが、今だによく判らない。「芝浜」で三木助は魚河岸で煙草を吸いますが、どうやって火を点けたのか・・・火打石を持ち歩いていたのだろうか・・・「悋気の火の玉」の旦那は「火の道具」を忘れて来たと云って、火の玉に煙草の火をもらうので便利ですが・・・

その件に付いて更に調べてみると・・・江戸時代にも旅人が持ち歩けるライターのようなものがありました。火打石に火打ち金をぶつけて火花を出し、炭の粉をまぶした綿に火を点けたんです。

「火事と喧嘩は江戸の華」と申しますが・・・遠くの火事を見に行くってのは、消火の邪魔になるので行かない方が宜しいが、消防車のサイレンが近所で止まった場合は消防の邪魔にならない範囲で、一応は外へ見に出た方がいいでしょう。風向きによっては火の粉が降ってくるかも知れませんし、蔵のある家は鼠穴に目塗りをしなくてはなりません。低いところならいいけれど、高いところの目塗りは梯子を掛けて、下から投げてもらった用心土の団子を受け取って・・・

まあ、最近は蔵のある家がほとんどないので、そんな事はしないでしょうが・・・江戸時代には消防ポンプも無いし防火用水のバケツリレーではなかなか火が消えないので、商店では蔵に火が入らないようにするために、蔵の目塗りは絶対に必要な作業でした。

子供の頃から火事が好きで、火事があると血が騒ぎ火消しの仲間入りをして身体には彫り物を入れるは、火事があると仕事も放り出して火消しの手伝い。とうとう、商店の息子さんは勘当になってしまいます。

近所で火事だってんで番頭さんは梯子に登り、蔵の目塗りをしようとしますが・・・帳場に座って算盤をはじいていればいっぱしの仕事は出来ますが、梯子の上で下から投げられた土を受け取るなんて事はできる訳が無い。片方の手は怖いから梯子を握っている。片手で土は掴めないでいると、屋根伝いに走ってきた火消しが、番頭の帯を折れ釘に引っ掛けてくれる。両手が使えるようになった番頭はかっぽれを踊り・・・

火が収まってやれやれ。あの、旦那さん。さっき助けてくれた火消しが来ております。おおそうか。礼を云わなくてはな。こっちへ呼んでおいで。それが・・・ご勘当になった息子さんで・・・

なぬ~! 追い返せ。・・・と仰いましても、助けてくれたんですからお礼くらいはしませんと・・・そうか。じゃあ、呼んでおいで。身体中彫り物がしてあるので、隠そうとして身を小さくしている。たいそうキレイに絵が描けましたね。私ゃそんな風にお前を育てた覚えは無いよ。でもまあ、礼は礼だ。ありがとうよ。

旦那さん。そんな礼は無いでしょう・・・と番頭。他人様なら、助けてくれたんですから何か差し上げませんと。婆さんや。勘当した息子が来たよ。何かやっとくれ。あらそうですかお爺さん。まあ、綺麗な彫物だこと。音羽屋~! バカ婆ぁ。何を馬鹿な事を云ってるんだ。お礼にあげるものは少しでいいよ。でもねぇ。この子はいろんな着物が似合うんですよ。

だったら旦那さん。上げるのが駄目なら、捨てたらいいでしょう。捨てれば勝手に拾っていきます。そうか番頭。いいところに気が付いた。箪笥を三つくらい捨てとくれ。それから千両箱も捨てとくれ。この子に立派な「なり」をさせたいねぇ。立派な「なり」をさせてどうするんだ? 火元へ礼に行かせます。

https://www.youtube.com/watch?v=eYipP9B4X0Q
 動画データ・・・昭和53(1978)年1月2日 テレビで全国放送された鈴本の初席

データ・・・六代目 三遊亭圓生 明治33(1900)年9月3日~昭和54(1979)年9月3日 享年79 前名=六代目 橘家圓蔵 出囃子=正札附 本名=山崎松尾

この演目は、二代目 三遊亭圓朝を襲名する事が決まっていながら病に倒れ、ついに圓朝名跡を襲名せずに没した初代 三遊亭圓右(1860~1924)の持ち根多として、若き日の志ん生や正蔵や圓生のような三遊一門の若手をして、その高座を楽屋で満喫した事でしょう。

圓生が亡くなる一年前の正月の高座。圓生が78歳になる年で、落語協会を脱退する波乱の年の正月でした。圓生の凄さってのは、高齢になっても最晩年までぜんぜんブレなかった事です。

これが圓生の落語であり、藪さんが圓生は東京落語の第一人者だったと云う理由がお判りでしょ? でも落語がまったく判ってないバカが世の中にはいる。藪さんがこの動画をチューブに上げたのは四年前だ。さっき見たら、高評価が45で、低評価が4だった。おい! 四人のバカ。何故ダメなのかの理由を云え。ばか者。

 
噺家は客が育てるんだよ。バカな客ばかりだからロクでもない噺家ばかりになっちゃうんだよ。

東京に初雪?

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イメージ 1 今朝テレビを見たら、東京都心と横浜に初雪が降ったらしい。どうりで寒いと思った。藪さんは早朝から湯に浸かって、来し方行く末(こしかたゆくすえ)を考えていた。

「来し方行く末」って、考えてみたら落語の寿限無で語られてたよね。♪雲行末~つ、風来末~つ、食う寝る所に住む所。パイポパイポ、パイポのシューリンガン・・・

藪さんは小学校に入学する前からラジオで落語を聴いていたから、当時のラジオで何度も放送されていた寿限無のフレーズを憶えちゃった。

まあそれはさて置き、藪さんが子供だった半世紀以上前と現代の日本人の生活は大いに異なりますね。かつては暖房と云えば、炭を燃やす火鉢でした。練炭って便利なものも出来ました。炭団(たどん)なんて丸い炭もありました。

電気炬燵ができた時には、文明の利器として大いに喜んだモノですが・・・今やそんな暖房装置はほとんど見受けられませんね(^ω^)

って事で、火事を出してはいけない商家では、奉公人に火を使う暖房装置は与えられませんでした。でも寒い。ではどうするかってのが、按摩の炬燵と云う落語です・・・(^ω^)

この演目は元は上方落語で初代 春團治(1878~1934)が「按摩炬燵」の演題でSP音源を残しています。東京へ持ってきたのは、上方の四代目 桂文吾(1865~1915)を崇拝していた三代目 柳家小さん(1857~1930)で、小さんは「らくだ」も文吾から教わっています。

文楽はこの演目を、「代地の今輔(浅草代地に住んでいた)」こと、三代目 古今亭今輔(1869~1924)から教わっています。文楽はこの他にも今輔から「夢の酒」、「お節徳三郎」を教わっています。

盲人が出て来る噺と云えば文楽と云われたほど、文楽は盲人噺を得意としていました。この他には「景清」や「心眼」や「大仏餅」ですね。現代の放送局は、身体障害者には出来るだけ言及しないようにしています。その訳は、差別していると苦情を云う人がいるからです。その結果、この世には身体障害者はいないものとみなす放送しか出来ません。

事実、この演目をラジオ東京(現TBS)がラジオで放送したところ・・・「盲人を炬燵代わりにして弄んだ挙句、小便まで掛けるとは、盲人をいじめるにもほどがある」・・・と云う盲人からの抗議の投書があったようです。その詳細に付いては判りませんが、盲人が手紙を書いたのでしょうか? それとも点字の投書だったのか?

その投書が来てからは、文楽は二度とこの演目をラジオではやりませんでした。落語国では障害者を差別するような事はしません。障害者と一緒に暮らして行こうと云うのが落語国の考え方なんです。誤解の無いようにお願いいたします。

https://www.youtube.com/watch?v=1KZQTRo3icM
 映像データ・・・第五次落語研究会 第21回公演 昭和44(1969)年11月27日(木) 文楽73歳時 国立劇場小劇場

データ・・・八代目 桂文楽 明治25(1892)年11月3日~昭和46(1971)年12月12日 享年79 前名=翁家馬之助 出囃子=野崎 紫綬褒章 勳四等瑞宝章 本名=並河益義 通称=黒門町

注意・・・例によってこの時代の落語研究会では出囃子を入れてませんので、ただスーっと出て来るだけでした。それでは寂しいので動画加工して出囃子の野崎を追加しておきました。

スリー・ドッグ・ナイト

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イメージ 1 お寒うございます。
 
スリー・ドッグ・ナイト(Three Dog Night)と云うのは、米国のグループ・サウンズです。

しかし、スリー・ドッグ・ナイトと云う英語のフレーズがある事を藪さんは知らなかった。英語の先生のsnob先生ならご存知かも知れませんが、藪さんはそのフレーズは知らなかった。

「三匹の犬の夜」って何じゃらホイ。オーストラリアなどの原住民は、寒さの厳しい夜には三匹の犬を抱いて寝ると云う風習から、スリー・ドッグ・ナイトと云う英語のフレーズは、非常に寒い夜の事を意味するらしい。藪さんブログって勉強になるなぁ(^∇^)

藪さんは犬を飼った事がないので犬の体温はどの程度なのか知らないが、人間よりも体温が高く、小型犬は38度以上の体温があるらしい。犬を抱いて寝るってのは最も省エネの暖房なのかも知れません(^ω^)

犬関連の落語と云うと・・・「犬の目」ってのもありますが、やっぱり「元犬」が奇想天外で面白いでしょう。

白い犬は人間に近く、信心すれば来世は人間になれるそうです。

・・・と云う事が根底にあるのが、「元犬(もといぬ)」と云う落語。上方の演題は「天満の白狛(しろいぬ)」。ちょっと待てよ、信心深い犬なんて見た事が無いぞと云う突っ込みはご無用。だからこそ、犬は人間になれないのです。それともあなたは人間になった犬を見た事があるんですか?(^ω^)

https://www.youtube.com/watch?v=1t19gIL4xfw
 データ・・・六代 桂文枝 昭和18(1943)年7月16日~ 前名=三枝 本名=河村静也 出囃子=本調子・中の舞 紫綬褒章受章(2006) 上方落語協会会長

春團治

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イメージ 1 大阪落語の春團治さんが亡くなりました。享年85。

三代目 春團治さんと云えば、その仕草がきれいな噺家さんでした。実父の二代目 春團治さんは巨漢でしたが、三代目は華奢な感じで、羽織をシュッと音をさせて一瞬で脱ぐ姿は、病前の志ん生同様に粋でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、どの演目にしましょうか・・・たくさんあるのですが、まだチューブに削除されずに残っている冬場の演目と云うと・・・高尾あたりですかね。

高尾(たかお)と云う大阪落語は、享保18(1733)年に出版された「軽口蓬莱山(かるくちほうらいさん)」と云う笑話本にある「思いの他の反魂香」が原話。東京では、「反魂香(はんごんこう)」と云う演題でやります。

内容は、「不動坊(火焔)」と云う演目と同様のオカルト的な噺なので、怪談噺とも云えるのですが、圓朝が作った「真景累ヶ淵」のような純然たる怪談噺ではなくて、むしろ滑稽噺と云えるような、ぜんぜん怖くない演目です。

因州鳥取の島田重三郎と云う侍が、江戸詰めの話の種に吉原の遊廓へ行き、三浦屋の高尾太夫(二代目)に一目惚れ。重三郎と高尾は逢瀬を重ねますが、その事が国元の殿様に知れ、重三郎は追放処分。その間に高尾太夫は仙台の殿様の目に留まり身受けされますが、云う事を聞かないので斬り殺されてしまう。その経緯は、ちょっとややこしいのですが東京では、先代の金馬さんなどが、同じ演題の「高尾(仙台高尾)」でやってます。

重三郎はそれを知り、髷を落として坊主になり、高尾に貰った「反魂香」を焚いては、高尾の魂を呼び出して逢っている・・・と云う話を、毎度お馴染みの町内のスットコドッコイの喜六(きろく。東京版では八五郎)が聞きます。三年前に死んだ女房のおチョネ(春團治版)に逢おうと、薬屋へ「反魂香」を買いに行きますが、薬の名前を間違えて、越中富山の「反魂丹」を買って帰り、火鉢にくべたがなかなか女房が出て来ないので、袋ごと放り込んだら煙がモクモク。

きな(かんこう)臭いので、隣に住むお梅が入ってくる。
「そちゃ女房、おチョネじゃないか」
「アホらし。隣のお梅。かんこう臭いのは、お宅かい」

大阪版と東京版では、若干の設定や人物の名前が違いますが、大阪では、三代目 桂春團治。東京では、八代目 三笑亭可楽や、その弟子の夢楽が演じたものが知られています。こう云う演目は、途中で「はめもの(お囃子)」が入る大阪の演出に軍配が上がるようです。

高尾太夫と云うのは、吉原の大店(おおみせ)、三浦屋に伝わる花魁の大名跡です。吉野太夫・夕霧太夫と共に、花魁の三大名跡と云われました。東京の落語で云えば、三遊亭圓生とか、三笑亭可楽とか、柳家小さんと云う大名跡で、花魁のナンバー・ワンが代々襲名したそうです。この演目で語られる高尾は二代目で、万治高尾とか仙台高尾と呼ばれた花魁。落語には「紺屋高尾」と云う演目がありますが、その高尾は五代目。

https://www.youtube.com/watch?v=Wi8-Ng5CJYA
 データ・・・昭和61(1986)年 春團治56歳時

データ・・・三代目 桂春團治 昭和5(1930)年3月25日~平成28(2016)年1月9日 享年85 前名=二代目 福團治 出囃子=野崎 本名=河合一 二代目 春團治実子 上方落語協会 第三代会長(1977~1984) 紫綬褒章(1998)・旭日小綬章受章(2004)

初場所

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イメージ 1 大相撲の初場所の序盤戦が終わって、いよいよ盛り上がってきてるんですかねぇ?(^ω^)

五日目の時点で、6人いる横綱大関で全勝してるのは、たった二人。オイオイいい加減にしろよ。平幕(前頭)に負けるような横綱大関があってはならないのだよ。

藪さんはそろそろ大相撲のルールを変更すべき時期に来てるんじゃないかと思います。現在の横綱は、どんなに負けても横綱の地位から陥落しないので、本人が申し出て引退するしかありません。

大関はって~と、負け越したら角番となり、連続して負け越すと関脇に陥落します。

藪さんから云わせるとそのルールが、今の相撲を詰らなくしている最大の原因だと思います。大関になる時には三場所連続して十勝以上していたのに、なんで大関になると十勝出来ないの?

藪さんが考えるに・・・横綱大関は十勝できなかったら、横綱は引退。大関は関脇に陥落させるべきだと思います。

って事で、相撲噺を得意にしていたのは、何と云っても圓生ですね。ここで圓生の阿武松(おうのまつ)を出したいところなんだが音源リンクが切れちゃってる。

東京ではやらない演目なので、ご通家以外はご存知ないと思いますが、圓生と同じ出囃子の正札附って事で、大阪の林家本家の染丸さんがやってる幸助餅(こうすけもち)ってのはどうでしょう。

東京のインチキ林家のこぶ蔵が染丸さんくらいに出来れば、正蔵だと認めてやってもいいんだけども、臭くてどうしようもないだろうな(^ω^)

相撲の噺には、いろんな切り口があるのですが、その中でも物語的に良く出来ているなと思うのは、幸助餅と云う大阪落語です。

「雷(いかずち)五郎吉」と云う大阪相撲の力士が、二年、江戸で修行をして、大阪へ戻って来て・・・

相撲好きから身代を潰してしまった、もち米問屋大黒屋の幸助。三十両と引き替えに妹を新町の廓へ預けての帰り道、ばったり出会った雷五郎吉・・・昭和60(1985)年1月に松竹新喜劇の藤山寛美が中座で、この「幸助餅」と云う芝居を演じたDVDも発売されているくらいで、ええ話なんやと思います。

落語のご通家には、「歯の浮く」ような話で、そんなご都合主義の話ってあるかい! と思ってしまいますが・・・まあ、そこそこ、このような噺をして置けば、ミーハー連中を、落語ファンだと思わせておく事は出来る訳で・・・藪さんは相変わらず口が悪い(^ω^)

https://www.youtube.com/watch?v=l72QBDlqeiw
 映像データ・・・2007年10月9日 NHK大阪ホール 染丸58歳時

データ・・・四代目 林家染丸 昭和24(1949)年10月10日~ 前名=二代目 染二 本名=木村行志 出囃子=正札附 紫綬褒章受章(2012)

スキーバス

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イメージ 1 ♪や~まは しろ~がね~ あ~さひを あ~び~て~

って事で、学生さんたちは夜行のスキーバスに乗って、スキー場に翌朝到着して、睡眠不足の状態で楽しいスキーに興じます。宿に一泊して翌日の午前中もスキー。午後に東京に帰って来るようです。何を隠そう藪さんも学生時代にそう云うスタイルのスキーツアーに参加した事があります。

東京を出て夜中にスキー場まで走って行く訳ですから、バスの運ちゃんは経験豊富なベテランじゃないと危険です。どうぞ皆様も信頼できる会社が企画したツアーに参加してスキーをお楽しみ下さい。

と云う事で・・・鰍沢(かじかざわ)と云う落語のオリジナルは、三遊亭圓朝(1839~1900)が、まだ二十代の頃の幕末に、深川木場の材木商、近江屋喜左衛門の家で開かれた、友人たちとの集まり「酔狂連」の三題噺の会で即席に作った作品と云われています。その時の出題は「小室山の護符・玉子酒・熊の膏薬」とも「玉子酒・鉄砲・毒消しの護符」とも、さらには「遊女・熊の膏薬・身延詣り」とも云われていますが、その記録が残っていないので確かな事は判りません。

三題噺と云うのは、あくまでも即興で作るものなので、完全な作品とは云えません。明治になってから圓朝が鰍沢を高座で演じたかどうかの資料を持ってませんので判りませんが、現在、五代目 古今亭志ん生(1890~1973)や、八代目 林家正蔵(1895~1982)や、六代目 三遊亭圓生(1900~1979)の音源で残されているものは、四代目 橘家圓喬(1865~1912)が、圓朝のオリジナルにかなりの尾鰭(おひれ)を付けたものと、晩年の志ん生の説明から伺われます。

四代目 橘家圓喬(たちばなやえんきょう 本名=柴田清五郎)と云う、47歳に満たずして亡くなった噺家さんは、あの志ん生や文楽の前座時代の落語界の第一人者だったようで、よく「名人」の引き合いに出される噺家さんです。圓喬は志ん生が22歳の時に亡くなりましたが、志ん生が心酔した本格派の噺家でした。志ん生は晩年、圓喬に入門したなどと云ってますが、もちろんそれは間違いで、志ん生が入門したのは、圓朝門下で同門の二代目 三遊亭小圓朝(1858~1923)です。つまり前座時代の志ん生は、それほど圓喬スタイルの本格落語をやりたいと思っていた訳ですね。

あらすじ
『初雪や トンビ転んで 河童の子』と云う様な雪ならいいんですが・・・。身延山(日蓮宗総本山久遠寺=山梨県)参詣の商人が、吹雪に行き暮れる。民家を見付け、宿を求める。その家には、山家(やまが)には珍しい27、8の実に、いい女がいた。話をするうちに、商人は神田の生まれですと云い、あなたは? 観音様の後の方にいませんでしたか? 『金龍の 裏は遊女の 目抜きなり』

月の兎花魁(つきのとおいらん)ですか。あなたには会った事がございます。その花魁がどうしてこんなところへ? 心中の成れの果てよ。・・・と話が進み、礼に懐に手を入れたが細かいのが無いので、胴巻きを出して25両包みの切り餅を崩して三両を紙に包んで出す。吉原の遊女だった、お熊と云う女は玉子酒を造って飲ませてくれる。

商人は眠くなって寝てしまう。お熊は亭主の酒が無くなってしまったので、近所で分けてもらうのか外へ。入れ替わりに亭主が戻り、残りの玉子酒を飲んだが、やがて身体が痺れて苦悶する。そこへお熊が帰り、『ちょいと! お前さん! その玉子酒を飲んだのかい? それにはさっき来た客の金を盗む為に毒が入っていたんだよ~』

その話を夢うつつに聞いた商人は、驚いて外へ転がり出た。身体が痺れて来たので、小室で受けた毒消しの護符を雪と共に飲み込む。すると身体が動けるようになり、必死で逃げる。お熊は亭主の鉄砲を持って追いかける。

商人は、富士川の急流の崖まで来て飛び降りた。崩れたいかだの材木につかまって『南無妙法蓮華経』と懸命にお題目を唱えていると、お熊の放った鉄砲の弾が頭をかすめて岩角へカチーン。『あぁ。この大難を逃れたのも祖師のご利益。一本のお材木(お題目)で助かった』・・・

この鰍沢と云う演目は、「あらすじ」をご覧になれば判りますが、真冬の話です。

真夏の暑いさなか、団扇や扇子が波を打つ寄席の中で、圓喬が真冬の噺「鰍沢」を掛け、寒さの描写を演じているうちに、団扇や扇子の動きがピタリと止んだ・・・それを三遊亭朝太と名乗っていた前座時代の志ん生は楽屋で聴いていた(^ω^)

つまりこの演目の内容は真冬なんですが・・・圓喬のような話芸を持った噺家は、夏場に鰍沢をやっちゃう訳ですねぇ・・・冷房代わりに(^∇^)

ちなみに、弾が逸れて何で「助かった」と云うのかは・・・昔の猟銃は単発の火縄銃であるために、咄嗟に猟銃を持ち出したお熊は、火薬と弾丸を持ち出しているはずは無いので、次の弾は撃てないから。それにしても、火縄の火を点ける時間的余裕がお熊にあったのか? の疑問は残るし、先に痺れ薬入りの玉子酒を飲んで寝ていた旅人は、身体が痺れたとは云え外へ逃げる事が出来たのに、後から残りの玉子酒を飲んだ猟師は、身体が痛いと苦悶するってのは・・・科捜研の女や鑑識の米沢さんを悩ませる(^ω^)

https://www.youtube.com/watch?v=Fp1EKuq4lw0
 昭和48(1973)年2月28日(水) 第五次落語研究会 第60回公演 正蔵78歳時

データ・・・八代目 林家正蔵 明治28(1895)年5月16日~昭和57(1982)年1月29日 享年87 前名=五代目 蝶花楼馬楽 出囃子=菖蒲浴衣 本名=岡本義 通称=稲荷町 トンガリ馬楽

正蔵はこの演目で、芝居噺の道具立てのように、紙の雪を降らせる演出や、お熊が旅人を追い掛けて行くシーンにお囃子を入れて、サゲをやらずに、そのままフェイドアウトする音源も残してます。

右上の地図の右下をクリックしていただくと拡大されます。オレンジ色のバルーンが小室山。その右横の紫の「A」の場所が鰍沢。真冬の富士川の急流に落ちて材木一本にしがみ付いている旅人。「お題目で助かった」なんてのんきな事を云ってますが・・・私は過去に二回、真冬の本栖湖でキャンプした事がありますが、外気温はマイナス15度くらいになります。テントの中でもマイナス3度でした。私の予測では、多分、この旅人は凍死すると思います(^ω^)

都内で大雪

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イメージ 1 皆様お待ちかねの大雪が東京にも降ってまいりました。危機管理能力に優れた藪さんは積雪で動きが取れなくなる前に、ちゃんとチューハイを12本買ってストックしておきました。

でも一日に6本飲んじゃうので二日しかもたない。藪さんが飲んでる125円の缶チューハイは、「まいばすけっと」にあまり在庫してないんです。その12本は、白山通りの西片店に在庫していたすべてです。近所に同じチェーン店があと三店あるので、全店を回れば50本くらいは手に入れられるとは思います(^ω^)

で、いよいよ来週の月曜日の1月25日は初天神ですね。「あれ買ってくれ。これ買ってくれ」の初天神です。お判りにならない方は落語をお聴き下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=cZRNNAoib5k

しかし、落語の時代とは違って、飴とか団子とか凧なんか売ってない。ジャガバタとか焼きそばとかチョコバナナのようなものに変わってきてるので、落語も変えざるを得ないのか・・・

だいたい、都心で凧揚げとかドローンを飛ばすと怒られる時代になりました。そのうちに、凧って何だ? と云う時代になるのかも知れません(^ω^)

まあそんなヨタ話はどうでもいいが・・・さすが受験シーズンの湯島天神の初天神は、梅まつりよりも混みますね。特徴的なのは、拝殿の右横と参集殿前の二ヶ所にあるグッズ販売所の行列です。

藪さんは年間を通して湯島天神を定期的に取材してますが、この時期に特徴的なのは、売店前の行列です。他の時期には行列なんかしてません。湯島天神ではいったい何枚の絵馬が売れるんだろうか?

藪さんが勝手に絵馬を作って売ったら・・・どうなるだろう? 神農会の親分さんに袋叩きに遭うか? 偽計業務妨害としてお巡りさんに連行されるか・・・(^ω^)

でも板っ切れが千円で売れるんだからボロ儲けだよね。談志は落語会の時に板に字を書いて五千円で売ってたけど、いいサイドビジネスだよね(^ω^)

でもまあ、そこまでになれば一流の証って事なんだな。藪さんが下手糞な字を書いたって買う人はいない(^ω^)

初天神は毎月25日の天神様の縁日の最初の日。「鷽替え神事」とも云い、木彫りの鷽(うそ=鳥)が売られます。おととし亀戸天神に取材した時には、「鷽は売り切れました」と云うアナウンスがありましたが、湯島天神では絵馬を買い求める人の方が圧倒的に多くて、鷽はあまり売れてません。

ちなみに靖國神社でも絵馬やお札を売ってますが、千代田区の観光ガイドの方にお聞きしたら、それらの木材は靖國神社のご神木の間伐材で作っているそうです。

https://www.youtube.com/watch?v=A062wc4lG3k
 撮影データ・・・平成27(2015)年1月25日(日)午後一時半 文京区湯島天神

酒呑みの決死隊

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イメージ 1 去年は藪さんローカルでは、あんまり雪が降らなかったんだけれども、一昨年の二月は二回も大雪でした。2月9日は都知事選の投票日でしたので、藪さんはいつものように午前七時の投票開始前に地元の小学校には行けなかったけど、雪道を歩いて午前七時半前には誰もいない投票場で投票してから帰ってきました。

その大雪で終りかと思ったら、一週間後の2月15日にまたまた大雪が藪さんローカルに降りました。腰が痛い藪さんは満足に歩けない。でも酒を飲まないと、腰が痛くて寝る事が出来ないので、夜中の零時に播磨坂下の共同印刷前の24時間営業のコンビニに酒を買いに行ったバカバカしい動画です(^ω^)

藪さんが持ってるハンディカムは、ヘビーデューティ仕様ではないので、水滴がレンズに付くとオートフォーカスが効かなくなってしまう。とんでもないひどい動画なんですが、SONYの技術開発者がこの動画をご覧になっていたら参考にしていただきたいと思います。

と云う事で、二年前の大雪の時に藪さんが夜中に酒を買いに行った時の記事(^ω^)

先週の東京の雪は45年ぶりの大雪だったらしいが、今週はそれよりも更に激しい大雪だと藪さんは感じました。東横線が脱線したり八王子のアーケードの屋根が落下して、関東各地で様々な被害が出ているらしい。地デジ放送はOKなのだが、スカパーのパラボラアンテナには当然ながら雪が付着してしまうために放送は全面ストップ。

そんな中で、肩や腰が痛い藪さんは午前零時に雪道の中を24時間営業のセブンまで酒を買いに行った。酒を切らして酒を欲しがる酒呑みのパワーは記録的な大雪をも物ともしないって事ですな・・・要は(^ω^)

折角あんなとんでもない雪の中を外出するんだから、その快挙をビデオで撮影しない手は無い。早速撮影を開始したのだが・・・充電はバッチリしてあるのだがあまりにも寒いためか、オートフォーカスやその他がまったく機能していなくて、単に画面が白くなっていて撮影とは云えない。でも、マイクは生きているので、藪さんの酒を買いに行く地獄の叫びをお聴き下さい(^ω^)

やっとセブンに到着して、カメラのレンズ等を拭いて再度電源を入れてみたが、画面は真っ白で使い物にならない。ウエストバッグにしまって少し休ませたカメラを帰り道の途中でもう一度電源を入れてみた。若干映るのだが、白く曇っていてオートフォーカスが効いていない状態なので、撮影を諦めて家路を急ぎました。

が、その直後に藪さんは前のめりに頭から雪道に突っ込んでしまった。多少酒が入っていた藪さんは一瞬何が起こったのか判らなくて、くも膜下出血で倒れたのかと思った。

幸いな事に軟らかい新雪だったので、まったく怪我はありませんでした。何十年も若ければ藪さんはきっと雪の中を転げまわって遊んだ事でしょう。でも今の藪さんは、身体中のあちこちが痛い老人です。そんな事をしたら明日は病院へ行かなくてはならないって事を理解している大人です(^ω^)

どうぞ皆さんも雪に浮かれたりせずに、平常心で雪に対処して、家で大人しくしていて下さい(^ω^)

https://www.youtube.com/watch?v=Cgg8dXHPc0U
 撮影データ・・・平成26(2014)年2月15日(土)午前零時頃 藪さんローカル

ハンディカムじゃなくて、元々ヘビーデューティ仕様のアクションカムで撮影すれば問題なかったと思います。

雪の足跡

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イメージ 1 なんか全国の天気予報を見ると藪さんローカルだけが雪が降ってないようで、申し訳ないような気持ちになってしまいます(^ω^)

とは云え、先日降った雪は雪かきされて路面にはないのですが、路肩に片付けられている雪が融けずに残っているので寒い。おまけに風が強いのでなお寒いし、ビル風の突風が半端じゃないので電チャリのハンドルが取られるから、藪さん怖くて外出できません。

こんな時は、お風呂に浸かっちゃチューハイ飲んで、眠くなったら寝ちゃう。これがセレブの生活ってもんですぜ旦那。六本木ヒルズなんて狭い長屋に住んで、家賃を払うためにせこい銭儲けしか考えてない連中なんか、セレブじゃないと思います。銭儲けなんかまったく考えない生活をしている人こそ本当のセレブだと思います。

今は寒いから上野の地下道かなんかに避難していると思いますが、暖かくなってくると不忍池の回りには青いビニールとか段ボールのような建材を使って移動住宅を建設する渡世人こそ、銭に執着しないセレブだと思うな(^ω^)

でね。落語の記事を書くのもいいんだけれども、藪さんの場合はどうしてもサービス精神が旺盛だから、その演目の動画を付けちゃうんだよね。しかしながらそれってのは、藪さんに著作線がある訳じゃないので、誰からも文句を云われない記事とは云えないので、藪さんとしては後ろめたい気持ちがあるんです。

藪さんが近所を歩いて撮影した動画なら、当然ながら藪さんオリジナルな訳で誰からも文句を云われない。ツバメの子育て状況とかってのを去年の夏前まではやってたんだけれども、もうお爺さんになっちゃった藪さんは、なかなか身体が云う事を聞かなくて、現在はモヤ藪取材がなかなか出来なくなってます。

と云う事で、藪さんは老後の手習いって事で、「30日でピアノが弾ける」って、DVDキットを四万五千円も出して買っちゃいました(^ω^)

88鍵のフルスケールのヤマハの電子ピアノは、一年半前くらいにドローンと同じ時期にネット通販で買ったのですが・・・藪さんは通販で買うのが楽しみで、梱包を解かずに置いてあるってのが随分ある、と云うパターンのたくさんいる通販お宅の一人です(^ω^)

楽譜が読めない訳じゃないし、若い頃は弦楽器なら何でもござれの藪さんでした。ギター、バンジョー、マンドリン、バイオリン、ウクレレやオートハープは自分で持ってたし、マンドリンとバイオリンは弦のチューニングが同じなので、バイオリンが弾ける方はマンドリンは問題なく弾ける筈です。

ギターもノーマルのチューニングの他に、オープンチューニングってのがありますので、スチールギターやドブロを弾けちゃうので、一つの弦楽器に精通するとあらゆる弦楽器を簡単に弾く事が出来るようになります。

しかしながら藪さんは、数万時間に及ぶ弦楽器の練習に比べると鍵盤楽器はせいぜい百時間程度しか練習していないので、ピアノが弾けるとは云えません。酒呑みながらほろ酔い気分でピアノが弾けたらいいなぁってのが、今の藪さんの望みです(^ω^)

相変らず藪さんの記事ってのは、チューハイ飲みながらメモ帳に原稿をタイピングしてますので、飲み屋のヨタ話と同じで取り止めのない話になってしまいがちです。落語で云うと「うどん屋」ですね(^ω^)
http://blogs.yahoo.co.jp/yacup/62861652.html

まあ、話は大幅に脱線しましたが、一昨年の東京地方の二回の大雪の前触れを取材した動画です。この頃はまだ藪さんが呟き芸^^をやってなかった頃なんで、多くのチューブ動画同様に・・・詰まんない動画ですねぇ(^ω^)

https://www.youtube.com/watch?v=9HxKEPEHGDU
 撮影データ・・・平成26(2014)年2月8日(土) 午前6時半頃 小石川植物園前の道路

参考までにビルモンローとブルーグラスボーイズの「雪の足跡」
http://www.youtube.com/watch?v=BqoeJaGHux4

ビルモンローに比べるとフラット&スクラッグスが如何に洗練されていたかが判るね。こんなの聴くと藪さん・・・寒さを忘れて痺れちゃうよ(^ω^)
http://www.youtube.com/watch?v=XHCHcq1qBeU

大寒

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イメージ 1 お~さむ・・・って事でね、昨日の1月21日は二十四節気の「大寒(だいかん)」だったようで、藪さんはなかなか布団から出られなかった(^ω^)

ションベンに起きたついでに風呂のスイッチを入れた。「お風呂が沸きました」のアナウンスが聞こえたのだが、藪さんなかなか布団から出られない。エアコンの暖房のスイッチを入れればいいんだけど、藪さん気管支が弱いのでエアコンの暖房は苦手です。

電気ストーブや石油ストーブは、寝ながらの使用は危険だしね。月一回のTBSの落語研究会の放送で素晴らしい落語解説をして下さった榎本滋民さん(1930~2003)のように、焼死したくないし・・・

ところで藪さんの近況なんだが・・・今年は、チューハイを買いに行く以外は外出していない。年々歳を取ってきて寒さがこたえる。しかも運動能力が衰えてきているので電チャリ取材も危なっかしい。風が強いと電チャリが振られて怖いので、降りて押している始末。

だから藪さんは引き篭もり老人になっている。その方が安全だからね。まあ、あったかくなれば出掛けるだろうし、4月の中旬にツバメが帰って来てくれれば、途端に元気になると思います(^∇^)

それまでの手慰みとして、ピアノの稽古をしようと思ってる訳だ。昨日やっと教則本を一通り見たんだが・・・なんか面倒臭そうで、やる気がしない。ギターやバンジョーなら、酒が入れば二時間くらいのワンマンショーが出来るんだが・・・(^ω^)

と云う事で、去年は1月20日が大寒で播磨坂下のコンビニへチューハイを買いに行った時の播磨坂の取材動画。

https://www.youtube.com/watch?v=xKBgfOjGKtQ
 撮影データ・・・平成27(2015)年1月19日(月)午後1時頃 文京区播磨坂

切通し

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イメージ 1 「切通し(きりどおし)」と云われている場所は、いろんなところにあるんだと思いますが、東京で切通しと云った場合は春日通りの湯島にある坂の事です。

切通しと云うのは、文字通り切って通す事を云うので、地名ではなく現地の人だけが知っている通称名ですね。切通しの説明板が確か春日通りにはあったと思いますので、今度行った時に忘れなければ撮影しようと思います。

藪さんの認識としては・・・徳川家康が江戸に来て、その百年前に太田道灌が作った千代田城に入城し・・・じゃなかった。家康は秀吉に、草深い武蔵野の地の開発を命じられたんだったと思います。太田道灌が去ったあと荒れ果てていた千代田城を修復し、大規模な土木工事をやりました。

今で云う国土交通大臣に相当する普請奉行と云うのを作って、代々の徳川幕府の将軍様が江戸を大阪に負けない商業都市にすべく大規模な工事をやりました。

有名なのは、度々洪水を起こし暴れ川と云われた神田川の流れを変えた工事です。お茶の水の聖橋から下の神田川を見ると、40メートル近い標高差があります。つまりそれは、神田川を隅田川に流すべく本郷台地を削ったんですね。

湯島天神の男坂と云ってる34段の急階段をご覧になればお判りのように、本郷台地から東側の天神下へ至るには、かなりの標高差があります。東京を東西に走る春日通りは江戸時代には通行の要衝でした。

つまり、春日通りをなだらかな坂にする為に、本郷台地を削ったんです。だから、湯島天神の北側の春日通りの部分を切通しと云ってるんです。多分そのような事が切通しの説明板には書いてあるはずです。違ってたらご免なさい(^ω^)

志ん生はよく昔の東京は暗かったとマクラで語ってました。湯島の切通しなんか真っ暗で、その暗い中を平気で歩いていたと云ってました。志ん生は明治23(1890)年の神田生まれですから、志ん生の子ども時代と云うのは圓生が生まれた明治33(1900)年前後と云う事になり、神田から上野の不忍池は近いので、藪さんの子供時代の遊び場が小石川植物園だったのと同じように、志ん生の子供時代の遊び場は不忍池だったと晩年の志ん生も語ってます。

https://www.youtube.com/watch?v=KPhq2q8vUdc
 撮影データ・・・平成26(2014)年2月21日(金) 正午前後

神さん友達

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イメージ 1 明日が1月25日で初天神なんですが、その一日前の24日が日曜日なので各天神様では、鷽人形を売るのに躍起になっている事でしょう。藪さんはストックしてあった50本ほどの缶チューハイを飲み干しちゃって、悲しい気分になってチューハイを買いに行こうと思ったのですが・・・危機管理能力に優れた藪さんは、ジム・ビームのバーボンウィスキーを滑り止めに買ってあった(^∇^)

で、ジム・ビームのお湯割りをボトル半分くらい飲んじゃったので、いまさら初天神の取材には行けないので、記事上げしてから寝ます(^ω^)

って事で、二年前の過去記事を見たら・・・藪さんは素晴らしい記事を書いていたので、それの再掲。

藪さんは宗教に嵌(はま)るほど純粋でも単純でもない人間です。藪さんはブルーグラスと云う音楽が好きな事は、このブログでも再三申し上げていますので、お馴染み様はご存知だと思いますが・・・ブルーグラスと云う音楽は、アイルランドやスコットランドを故郷とする農民が、新天地を求めて大西洋を船で横断し北米大陸の東海岸へ到達した人たちの子孫がアパラチア山脈の山間で故郷の民謡を歌った音楽をルーツにしています。

支那や朝鮮人が勝手に我が国の領土に入り込む事を、侵略あるいは不法侵入と申しますが、数百年前ってのはまだ地球が丸いのかどうなのかも良く判ってなかった時代であり、海を船でどこまでもどこまでも行くとその先は滝になっていて船が落っこってしまうと、まるで先代 金馬さんが演じる八五郎が、ご隠居に詰め寄るような事が普通に信じられていた時代でした。だからそう云う国際法的なルールはなかった。

でも現代では他国の領土へ勝手に侵入する事は、他人様の家へ勝手に入り込む空き巣行為と同じであり、それが犯罪だと判って無い連中は、数百年前の野蛮人と同じであり、今時の人じゃないんです。だから日本はそう云うバカな国は相手にしない方がいいです。

すいません。藪さんはいつも酒飲みながら原稿をタイピングしてるから、すぐに受け狙いの飲み屋のヨタ話になってしまう。真面目にお読みいただく方には、毎度毎度、本当に申し訳ないと思っておりますですハイ。でもこれが藪さんの芸風なんだからしょうがない(^ω^)

で、ブルーグラス音楽には半分とは云わないが、三分の一くらいはセイクレッド・ナンバー(賛美歌)と云って、キリスト教に関連する楽曲があるんです。日本では堀内敬三先生が作詞なさって「冬の星座」として知られている曲も、実は「What a Friend We Have in Jesus」と云うセイクレッド・ナンバーで、実に多くのブルーグラスバンドが歌ってます。この歌を歌って無いブルーグラスバンドは「モグリ」だとさえ云える、超有名曲です(^∇^)

What a Friend We Have in Jesus

What a Friend we have in Jesus. All our sins and griefs to bear!
What a privilege to carry, everything to God in prayer!
Oh, what peace we often forfeit. Oh what needless pain we bear,
All because we do not carry, everything to God in prayer.

Have we trials and temptations? Is there trouble anywhere?
We should never be discouraged. Take it to the Lord in prayer.
Can we find a friend so faithful. Who will all our sorrows share?
Jesus knows our every weakness. Take it to the Lord in prayer.

「イエスこそわれらが友」・・・三宅忠明さんの訳

イエスこそわれらが友、罪も悲しみも引き受けて、
祈りによって、すべてを神に届ける特典、
ひとはしばしば平和を放棄し、不必要な痛みに耐える、
祈りによって、すべてを神に届けないから。

試練や誘惑があるだろうか、苦しみもありえない。
祈りによって、すべてを神に届ければ、落胆することもありえない。
イエスほどの友がどこにいよう、すべての悲しみを分かち合う、
人の弱さを知り尽くし、祈りによって、すべてを神に届けてくれる。

「神さん友達」・・・藪さんの超意訳(^ω^)

おっ友達ゃねん神さん わてらの罪背負(しょ)って
いつだってありがとう 思うてまんねんやわ
神さんに祈ると いっつも悩みが消える
わてらは幸せや 神さんがおるから

神さんは時々 肩こりくれはるけど(´,_ゝ`)プッ
我慢をしたなら 次に頑張れる
何も怖い事はおまへん 神さんがおるから
いつもいつまでも あんじょう頼のんまっせ

(訳者注・・・ジーザスってのは藪さんと同じように神の子であって神ではないのだけれども、そんな細かい事は短い日本語では表現できないので「神さん」と云うお友達にまとめました^^)

「冬の星座」・・・堀内敬三先生の作詞

木枯らしとだえて さゆる空より 地上に降りしく 奇しき光よ
ものみないこえる しじまの中に きらめき揺れつつ 星座はめぐる

ほのぼの明かりて 流るる銀河 オリオン舞い立ち スバルはさざめく
無窮をゆびさす 北斗の針と きらめき揺れつつ 星座はめぐる

(堀内先生の場合は訳詞ではなくて、原詞とは無関係の新たな作詞ですからお間違いの無いように)

https://www.youtube.com/watch?v=Hje9vyn5ki8
 このバンドに付いては、藪さんはまったく知りません。顔が似ているので三人兄弟なのかな? 右から長男のギター、長女のマンドリンのボーカル。末娘のケイティのバンジョーって感じでしょうか? (^∇^)

プロではないにしてもアマチュアにしては、かなり上手いバンドだと思います。これだけの演奏ができるのなら、来日したら藪さんは体調の折り合いが付けば金を払って見に行きたい。何よりも楽しいよね。音楽は楽しくなくちゃいけません。藪さんは楽しくなれない音楽は大嫌い。

藪さんプロデューサーのアドバイスを聞いてくれるなら、このバンドは既に旬を過ぎた生意気で可愛くないデキシー・チックスよりも上に行くと思います。何よりも素人っぽい可愛さが抜群にいい!(^-^)v

このクリップではバース部分で若干オリジナルの歌詞とは違う部分がありますが、お聴きいただくと判るように、歌ってる内容は大して変わらないのでオリジナルの歌詞を採用しました(^-^)v
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