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Channel: 藪井竹庵
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三木助

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イメージ 1 まあ、三木助の事なんですけどね・・・三代目 桂三木助は、53年前の昭和36(1961)年1月16日に58歳で亡くなってしまったので、三木助を生の高座で体験なさっている方も少なくなってきていると思います。しかも映像が一本も残っていないので、高座での所作が美しかったと云われてますが、残念ながらそれが現代人には判りません。

 談志が五大噺家論と云う事で、志ん生・文楽・三木助・圓生・小さん・・・の名前を挙げているが、それはまあ談志流の独断と偏見に満ちたモノで、藪さんの意見とは違う。だからって、談志が間違ってると云ってるのではない。

 そもそも噺家を五人に絞るなんてのは無理がある。藪さんなら十大噺家論って行きたいねぇ(^-^)v

 志ん生・文楽・圓生は東京の三大噺家であり、これは絶対に外せない。それに、金馬・正蔵・可楽・柳橋・三木助・柳枝・小さん・・・を入れなかったら、中途半端な落語論になってしまうと思います。

 戦後の混乱期に東京落語の隆盛期を作ったのは、金馬と柳橋です。志ん生・文楽・圓生は、その後の落ち着いた社会の中で、ゆっくりと落語が聴けるようになってから持て囃された人たちです。

 戦後の本格志向の落語評論家によって、金馬や柳橋の庶民の落語の評価が低くなってしまったのは、ミス・リード(間違った方向性)だと思います。

 昭和30年代の落語と云うのは、志ん生・文楽が先行しそれを圓生が追い掛ける形だったと思います。もちろん圓生はやがて東京落語のトップに立ちますが、圓生を追い掛けたのが三木助と小さんです。圓生は小さんとは芸風が違うからライバルとは思わなかったでしょうが、三木助の追い上げには脅威を感じたはずです。

 だからと云って、三木助は名人だったのかと云う考え方もあります。小柳枝や圓(まどか)時代にはまったく注目されない噺家で、生活も荒(すさ)んでました。NHKラジオのバラエティ番組「とんち教室」で二代目 橘ノ圓の名前が落語以外で全国に知られた程度でした。

 昭和25(1950)年4月。48歳の時に三代目 桂三木助を襲名すると共に結婚して、やっと落語に打ち込むようになりました。それから昭和36(1961)年に亡くなるまでの十年間が三木助の活躍期間です。昭和31(1956)年に東横落語会が発足し、志ん生・文楽・圓生・小さんと共に三木助は54歳の時に東横のレギュラー出演者となり、名人と肩を並べるようになったのです。

 歌舞伎十八番の「義経千本桜」の四段目をパロディにした「猫忠(猫の忠信)」ですが、東京では圓生根多であり、圓生の独壇場だったのですが、三木助の「猫忠」は圓生に迫るものがあると藪さんは思います。

音源データ・・・昭和34(1959)年6月22日 三木助57歳時

 データ・・・三代目 桂三木助 明治35(1902)年3月28日~昭和36(1961)1月16日 享年58 前名=二代目 橘ノ圓 出囃子=筑摩祭 本名=小林七郎

 三木助が圓時代に演じた最後の演目が「猫忠」であり、昭和25(1950)年4月上席の上野鈴本での襲名披露初日、つまり三木助の高座名で演じた最初の演目も「猫忠」でした。

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